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北斎の娘「葛飾応為」


世界一有名な日本の画家、江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎。

葛飾北斎は18世紀から19世紀初頭、江戸時代後期に活躍した日本を代表する浮世絵師だ。

写実性あふれる描写とダイナミックな構図、北斎漫画と呼ばれる江戸町人を生き生きとユーモアたっぷりに描いた作品など、作品数は3万点以上にもなると言われており、 「富嶽三十六景」を代表作にしてその作品の数々は、日本のみならずヨーロッパなど海外のアーティストにも多大な影響を及ぼした。

北斎は88歳で没しているが、その生涯はまさに描くことに捧げた一生だった。絵に没頭し部屋が散らかれば何十回と引っ越し、食べ物や着るものにも無頓着でとにかく絵に夢中になって描き続けた生涯。

新しい表現に挑戦するたびに、真の実力を世に問う為に新人の振りをして画号を変えており、その回数は30回にのぼる。魚仏、雷震、時太郎、三浦屋八右衛門、俵屋宋理…、晩年は「画狂老人卍」という具合。

「北斎」と名乗った時期はさほど長くなく「画狂老人卍」と名乗った期間の方が長く、浅草に残る墓にも北斎ではなく画狂老人卍と刻まれている。

絵師としての矜持高く、

ある大名の使者が絵の依頼をしてきた時は、その頼み方があまりに横柄だったので、そっぽを向いたまま一言も返事をせず使者を家から叩き出す具合。

生涯を通して貧乏で「北斎」の名も金になると知って弟子に売ってしまう始末。

描いて描いたその生涯は1849年に閉じるが、北斎の絵に対する執念は死の間際まで衰えず、最後の言葉は「せめてあと10年、いや5年あれば本物の絵描きになれた。」だった。

まさに画狂老人として生涯を閉じた北斎だが、その娘も絵師として活躍したことはあまり知られていない。

北斎の三女。名はお栄。

北斎にいつも「おーい、おーい」と呼ばれたことを由来に葛飾応為と名乗ったお栄もまた北斎に負けじと劣らぬ江戸っ子気質と絵師としての才気に溢れていました。

応為は一度北斎の門弟の元に嫁ぎますが、幼いころから父の絵を見てきた応為。旦那の描く絵を見て「へたくそ」と鼻で笑い離縁されてしまいます。

その後は北斎と二人でゴミ屋敷で暮らしながら絵師として活動を開始。

応為の作品自体は10点程度しか残っていないが、いずれも見ごたえのある名品ばかりだ。中でも夜闇に浮かぶ美しい光を表現した「光の浮世絵」と呼ばれる作品群は一般的に想像される浮世絵の表現とはかけ離れている。それらの作品から「江戸のレンブラント」の異名でも呼ばれている。



これらの作品には西洋絵画的な陰影表現が見られるが当時オランダ絵画が日本にも伝わっていたので応為も研究したのだろう。

応為についての資料は殆ど残っておらず、北斎の日記にわずかに散見する程度にしかないが、

北斎に「ろくに恋愛をしていないからお前の絵には色気がない」と言われた応為が「なにを、このやろう」と意地になって男娼を買いに行ったり、ある商人の依頼で応為が描いた地獄絵図があまりに恐ろしく奥さんが塞ぎ込んでしまい、見かねた北斎が地獄絵図の真ん中に菩薩を描き加えて事を収めたエピソードなど北斎と応為の親子関係を思わせるエピソードがいくつかあります。

また北斎は応為の絵について「美人画を描かせたら俺より上」とも書いています。

父は心の中では娘の才能を認めながら「お前なんてまだまだだよ」とうそぶき、娘は反発しながらも父親を尊敬する。

絵師としての父を尊敬し、またライバル視しながらも描き続けた親子二人の生活は北斎が没した時に終わりを迎えます。

応為は北斎の死後、家を出て消息不明となっており、その後一枚の絵も描くことはなかったのでした。

進士 素丸


北斎と応為による合作「唐獅子図」

真ん中の獅子は北斎、周りの花は応為による。

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