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戦国時代版「ロミオとジュリエット」


シェイクスピアの初期代表作「ロミオとジュリエット」。

敵対する二つの家の令息・令嬢という関係であるロミオとジュリエットは恋に落ちるものの両家間の険悪な関係から引き離され、不幸なすれ違いもあって若い命を散らせてしまう悲劇です。

この現代においても親しまれているシェイクスピアの物語ですが、その物語にも負けない悲恋が戦国時代にも実際にありました。

それは歴史のうねりに翻弄されながらも互いの想いを貫いた若い二人の物語でした。

永禄12年12月、織田信長の長男信忠は11歳、武田信玄の六女松姫は7歳。両家の同盟のために二人はこの年齢で婚約させられます。

当時の織田家と武田家は一触即発でいつ戦になってもおかしくない状態でしたが、この二人の婚約はまだ弱小大名だった織田信長が武田との戦を避けるために仕組んだ政略結婚でした。

乱世の時代、婚約したものの二人は直接会うこともままならず、お互いに顔も知らぬまま。

いつしか二人は手紙のやり取りを始めます。

両家の関係から会うことの許されない二人でしたが手紙を通して少しづつ心を通わせていきます。

婚約から3年後の元亀3年、武田信玄は三河の徳川家康を三方ヶ原で攻めます。徳川家と言えば織田家と強い同盟関係で結ばれている大名。つまり武田が徳川を攻めるということは、武田が織田を攻めるのと同等の出来事となります。

この三方ヶ原の戦いにより、信忠と松姫の婚約は信玄により解消されてしまいます。

松姫にはこの後も何度も縁談の話が持ち上がりますが、松姫は決して首を縦に振りません。親の勝手で婚約させられ、更に親の勝手で破棄された縁談でありましたが松姫の心はすでに信忠にありました。

敵対関係にある信忠に対しての想いを貫き続けたのです。

時は流れ天正10年3月、信忠26歳松姫22歳の頃、ついに織田と武田の戦が始まってしまいます。この時武田攻めの総大将を信長より任されたのは他でもない、信忠でした。

戦国時代のうねりの中、松姫のいる国を攻めなければならない信忠の心情いかなるものか察する手立てはありませんが、当時の記録に「女子供は決して殺すな」と信忠より命令が下ったと記録があります。

この戦により武田家は滅亡してしまいます。だがこの時松姫は、兄である仁科盛信により武蔵国に逃がされます。

幼い日の婚約者を想っていたのは松姫だけではありませんでした。

16歳にもなれば正室を迎え入れるのが当たり前だったこの時代において信忠は26歳になっても正室の座を空けたままにしていました。いつの日か松姫を正室に迎えることを夢見ていた信忠は、松姫が無事であることを知ると武蔵国まで迎えを送ります。

そして松姫もまた信忠の想いに応えるべく信忠の元へと向かう決心をします。

武蔵国から織田家の岐阜城へと向かう道中の天正10年6月2日夜、京都で歴史を揺るがす事件が起きます。

明智光秀の謀反により織田信長が討たれたのです。

世にいう本能寺の変。

同じく京都に駐屯していた信忠はわずかな手勢で父の救出に向かうが、すでに信長が討たれたことを知ると今度は二条城に向かいます。二条城には当時の皇太子・誠仁(さねひと)親王一家が暮らしていました。辛うじて親王一家を脱出させることに成功した信忠だったが明智軍に包囲されてしまいます。信忠は自ら先陣をきって孤軍奮闘しますが明智軍に追い詰められ遂には自害することとなります。

信忠の死を知った松姫は同年秋、武蔵国の心源院に出家します。幼い日に婚約をし、婚約解消後もお互いのことを想い続け、互いの家が敵対関係となってもその絆が切れることはなかった松姫と信忠。松姫は信忠から一文字とり尼名を信松尼(しんしょうに)とし、一目会うことも叶わなかった信忠の菩提を弔ったのです。

その後、信松尼は武田家末裔でもある甥っ子3人を育てながら、絹を織って生計をたてて暮らし56歳で亡くなります。そして、やがて武蔵国は八王子と地名を変え、松姫の織った絹は八王子織物として悲恋の物語と共に現代まで伝えられていくことになるのでした。

進士 素丸


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