薩摩ボタン、ヨーロッパで大いに流行る

19世紀のヨーロッパでのこと。
当時の貴族の間でボタンが大流行したことがありました。
シャツなどに付けるあのボタンです。
大変な栄華を極め、常にその富を競い合ってきたヨーロッパ貴族の皆さん。
身に着ける宝飾品で競い、晩餐会の豪華さで競い、所有する城の数で競い、といった具合でしたが、そんな貴族の間で、シャツにボタンを一つでも多く付けることが富の象徴とされ、一着のシャツに20個も30個もボタンを付け、その数を競い合ったそうです。
イギリスから端を発したこの大流行は、ヨーロッパ中の貴族に波及しボタンは飛ぶように売れていきました。
いくら作っても売れていくボタン。
貴族たちのシャツのボタンの数はどんどんと増えていき、ヨーロッパ中の工場がボタンの大量生産に手を出しました。
それでも需要に間に合わず、アジアなどの貿易相手国にもボタンを作らせます。
それは江戸末期の日本も例外ではありませんでした。
ヨーロッパからのボタン生産の要請を受けたのは、当時鎖国政策を行っていた日本の中で非公式ながらも貿易を許されていた薩摩でした。
当時の日本ではボタンの存在は殆ど知られておらず、それは薩摩でも同じでしたが、薩摩の職人は見様見真似、手探りでボタンを作っていきます。
諸外国が一つでも多くのボタンを売ろうと品質の悪いボタンを大量生産する中、薩摩の職人たちは薩摩磁器で一つ一つ手作りの薩摩ボタンを作っていきました。
七つのボタンで春の七草を表すものや、四つのボタンで花鳥風月を表すものなど、連作で一つの作品になる美術品のようなボタンを次々に制作し、これがヨーロッパ貴族の間で大ヒットします。
それまで数の多さを競っていたボタンは、美術品として価値の高い薩摩ボタンを付ける一点豪華主義がトレンドとなり、現在のボタンの数に近いデザインになっていきます。
薩摩ボタンの流行のおかげで、日本がどこにあるかも知らないヨーロッパの貴族たちは、富士絶景や七福神、花札の役など日本への知識を深め、日本に対して好意的になっていき、やがてヨーロッパでの博覧会に薩摩藩士が招かれることとなります。
ヨーロッパに招かれた薩摩藩士たちはその文明の差に大変驚きます。
近代建築が立ち並び、蒸気機関車が走る。軍事に関するものや天文、数学、造船、物理、語学といった西洋技術や知識、全てにおいて日本は負けている。このままでは日本は西洋に飲み込まれてしまう、と開国論を強めていくことになります。
そして、薩摩ボタンの輸出で得た利益をもとに物資を買い、留学によって得た知識により戦略を練り、やがて戊辰戦争へと繋がってゆき、遂には薩摩藩主島津家200年の悲願であった倒幕へと相成っていくのでした。
その後の明治維新に至るまでの薩摩藩士の活躍は言わずもがな、もし薩摩ボタンが無かったら明治維新はもっと遅れていたかも知れません。
ちなみに、当時のヨーロッパの博覧会に招待された日本の出品物のデザインに興味を持った、一人の西洋人がおりました。その西洋人はデザイナーの仕事をしていましたが、それまでヨーロッパには無かった日本のデザイン性に大きな影響を受けます。その西洋人の名はジョルジュ・ヴィトン。ルイ・ヴィトンの二代目を継いだ彼は日本の家紋から着想を得て「モノグラム」を、市松模様から「トアル・ダミエ」を発表し、現在でも世界中に愛用されているのでした。
進士 素丸