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浮世絵と印象派


江戸時代に成立し、広く江戸の大衆メディアとして当時の庶民に愛された「浮世絵」。

その始まりはおよそ17世紀後半と言われています。

江戸時代の庶民の楽しみといえば「遊び」と「芝居」。

これが、浮世絵の中で「美人画」や「役者絵」として描かれ、いわば流行ファッション誌、歌舞伎役者のブロマイドの代わりとして、瞬く間に庶民に浸透していきました。

白黒の明快なコントラストに鮮やかな色彩をまとった浮世絵は、260年以上も続いた天下泰平の世ならではの開放感にあふれ、明朗闊達な江戸庶民の気性と当時の社会風俗が生き生きと描かれています。

その浮世絵が1867年にフランス・パリで開催された万国博覧会へ出品され、当時のヨーロッパで浮世絵に代表される日本の伝統芸術の一大ムーブメントが巻き起こるのです。いわゆる「ジャポニズム」です。

なにより大きなショックを受けたのはヨーロッパの若い芸術家たちでした。 いつの時代もそうですが、若い芸術家は伝統的なものに対して反発し、そのエネルギーが次の新しい芸術を生み出すいわゆるカウンターカルチャーへとつながってゆくものですが、 後に「印象派」と呼ばれる、パリの若い芸術家たちもそうでした。

それまでヨーロッパでは絵画といえば、戦争画や宗教画、貴族の肖像画ばかり。 彼らは皆、サロン絵画の古臭いセンスに飽き飽きしていて、常に息苦しさと新しい芸術への飢餓感を感じていました。

そこで出会ったのが日本の浮世絵です。

庶民の日常をのびのびと描く浮世絵の自由な画風や明るい色彩、大胆な構図は大変な驚きだったのです。

「こんな表現があったのか!」と。 皆、夢中になって浮世絵に飛びつきました。

大の浮世絵ファンで知られるゴッホは熱心な収集家でもあり、現在ゴッホ美術館にはゴッホが所有していた計477点の浮世絵が収蔵されています。

浮世絵は印象派を代表する若き日の巨匠たちの心を次々と魅了し、彼らは浮世絵に学ぶことによって新しい絵画の可能性に目覚めていったのです。


浮世絵大好きゴッホ作の「タンギー爺さん」

背景を浮世絵で埋め尽くしております。


左が広重のオリジナルで、右側はそれを模写したゴッホの油絵作品。

テキトーな漢字書いたりして楽しそうです。


これも同じく左が広重のオリジナル、右がゴッホの模写した作品。

そして同じくテキトーな漢字。


これも有名な作品。

クロード・モネが、32歳の若さで亡くなったカミーユ夫人が扇子を手に赤い着物を着ている場面を描いた「ラ・ジャポネーズ」 睡蓮などで有名な彼は自宅の庭に日本風の橋をかけるなどした日本通。


アンリ・リヴィエールは「フランスの浮世絵師」と謳われる、ジャポニズムに影響を受けた画家です。

収集した浮世絵から独学で木版画の技術を学び、「エッフェル塔三十六景」と題して北斎をオマージュ。


多くの浮世絵や日本画作品をコレクションしていたマネが描いた「エミール・ゾラの肖像」の背景には相撲錦絵(二代歌川国明「大鳴門灘右エ門」)が配されています。

この作品は、マネの代表作「笛を吹く少年」が当時のサロンで酷評されたとき、ゾラだけが「浮世絵の技法を取り入れた新しい試みである」と高く評価してくれたその返礼として描かれたものです。


浮世絵に影響されたのは画家だけではありませんでした。

クロード・アシル・ドビュッシーの代表曲の一つである交響曲「海」は、葛飾北斎の「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」に影響を受けて作曲されています。

初版の「海」の表紙には、本人の希望により「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」が採用されており、ドビュッシーの自室にも同じ北斎の絵が飾られていたそうです。

これらの作品から見て取れるように当時の若い画家たちはこれまでの西洋美術には無い技法で表現された日本の浮世絵を研究し、伝統絵画から脱却した新しい芸術を生み出そうと努力したのです。

そして彼らはいつしか「印象派」と呼ばれるようになり美術史に大きなムーブメントを起こすのでした。

また、従来から重んじられた美しい旋律やきちんとした楽曲の構造を主張せず、旋律がぼんやりとしていて、朦朧とした印象を受けるドビュッシーが生み出した音楽もまた、その独自の表現方法から”印象派音楽”と称されるのでした。

進士 素丸

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